奥村まことのブログ 吉村順三先生に学んで

 

ブログの最終回「私見 愛知芸大の建物の行方」を読んで

2015年9月

奥村まこと様 

 吉村先生の事務所で過ごされた日々のことを中心に、芸術家の日常が感じられるおもしろい文章や楽しい絵をたくさんありがとうございました。


 私が、まことさんに吉村設計事務所や愛知芸大キャンパスに関する文章をお願いしようと思ったのは、2010年、キャンパス整備についての会議、施設整備ビジョン検討会を傍聴した際、既存キャンパスのコンセプトを、設計者の奥村昭雄先生ではなく、大学側の委員が雑誌などの引用で説明していたことに疑問を感じたからです。設計者は何のためにこの検討会に出席しているのか。今後の施設整備計画の中心に設計者がいないのはなぜなのか。設計者の考える今後のキャンパス計画についてなぜ議論されないのか。私達は、もっと設計者の話を聞きたい。愛知芸大のキャンパスは、設計者のどんな思いから生まれたのか。設計者はこれからのキャンパスについてどうお考えなのか。在学生や卒業生にも知ってもらいたいと思い、設計の中心になった吉村先生と奥村先生のそばにいらっしゃった奥村まことさんにお願いして書いていただいた文章をこのサイトに載せてきました。


 私が在学中だった1980年代、増築計画の為に吉村事務所の所員の先生や奥村昭雄先生が学校にいらっしゃっていたそうですが、先生方からキャンパスについてお話を聞く機会は一度もありませんでした。当時すでにデザイン棟は窓も天窓も壊れて開かず、夏は暑くて作業できない状態でした。他の校舎でもいろいろな不具合が見えはじめた時期だと思います。昼間は美しい池や森も夜は真っ暗で怖く、もっと外灯を増やしてほしい、と学生が要望をだしましたが、外灯も建築とともにデザインされたものなので勝手に変えられないのだと聞かされました。 誰がこう回答したのでしょう? 設計者とユーザーが遠ざけられた結果、ユーザーに「直したらもっと使い易くなる」という感覚が生まれず、「使い勝手が悪いから建替えて欲しい」という思いが大きくなったのかもしれません。時代とともにキャンパスに必要な設備や空間は変わっていくべきなのにそれができない。改修の予算がつかないということは説明されず、「著名な建築家の作品だから」不便を強いられた、という思いがユーザーにありました。  

 もちろん素晴らしいキャンパスで暮らしていたからこそ身に付いた空間の感覚、思い出の風景に比べれば、そんな不便など全く問題ではなかったのですが、それが解るのは卒業してからのことです。


 愛知芸大は、まことさんが書かれたように「東京のお父さん」がつくってしまったから、中京地域に共感をもって迎えてもらえなかった、ということはないと思います。 

 ガツンと一つの迫力をもっていれば、今頃もっと古くさいデザインになっていたかもしれません。


 公共建築に限らず、ほとんどの日本人が「築50年なら、そろそろ建て替えの時期だ」と考えるのはなぜでしょう?


「建築にとってもっとも大切なのが保守監理であること」を歴然と認識しているユーザーなど、今の日本にはほとんどいないと思います。建築家はユーザーなら認識しているはずだ、と思っているのでしょうか。建築家に設計を依頼するような特別なユーザーならそうかもしれません。私達、ふつうのユーザーは、買い替え前提の消耗品として建てられた商品住宅に暮らし、そこで使う道具類、家電、どれをとっても修理できるものなどないのですから、「直して使う」感覚は日常から失われています。


 愛知芸大で「公共建築におけるまともなメンテナンス」が50年にわたって行われてこなかったのは、「直して使うこと」がどういうことなのか、管理する立場の愛知県にもユーザーである学生や教員にも理解できていなかったからだと思います。「建替えて欲しい」という要望を持ってしまう前のユーザーに対して設計者は何も出来なかったのでしょうか。


建築家の世界とは遠いユーザーの世界。2つの世界をうろうろする利益の世界。これを束ねることができるのは、権力だけかもしれません。その権力に「キャンパスに対する親しみ」だけでなく「次の世代に渡すべき優れた建築がわかる眼」がなければキャンパスが残るのは難しいのだと思います。


カワモズクやスズカカンアオイは、新音楽棟の建設で大きく数を減らしましたが、生き残りもいます。移植先ではなく最初にいた場所にひっそりと残っています。彼らは愛知芸大の開学よりずっと以前からあそこにいたのです。 50年後の開学100周年の頃にはこの「悲願の新音楽棟」も老朽化して淋しく朽ち果てているかもしれません。そうなっても生き物たちが、かわらずあの場所で生き続けてくれていることを願います。


2015年10月 篠田 望