奥村まことのブログ 吉村順三先生に学んで
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せめて五十年後を考えよう
2015年10月
奥村 まこと 様
東北大の森です。ご無沙汰してしまい、すみません。仙台に移って一年半、こちらの生活にもだいぶ慣れてきました。篠田望さんのサイトに寄稿された「私見 愛知芸大の建物の行方」と、それに対する篠田さんのコメント拝見、いろいろ考えさせられました。私も応答してみたくなり、キーボードを叩いています。題して、「せめて五十年後を考えよう」。
日本中どこでもそうですが、仙台も相変わらず「普請中」です。私が家内、娘と移り住んだ教員宿舎の目の前では、地下鉄駅工事の真っ最中、いつも騒々しいです。駅舎はほぼ出来ているのですが、典型的なハコモノで、規模こそ異なるものの、見た目は原発建屋そっくり。せっかく杜の都に新地下鉄を造るのだから、もう少し気のきいたデザインを採用してくれたらなあ、と窓から眺めるたびに溜め息です。最寄りのキャンパスに新しく建てられた事務棟も、似たり寄ったりのハコモノで、既存の校舎群と凡庸さを競い合っています。
ハコモノ乱造ばかりか、都市緑化に関しても、劣化があちこちで進行中です。
街路でもキャンパスでも、再開発工事をしているところはどこでも、そこに生えていた草木を一掃し、アスファルトやコンクリートで固めてしまいます。ハコモノの周りには申し訳程度の植樹しかせず、潤いもへったくれもありません。かつて、道路を敷くとは、それに沿って街路樹を植えることであり、学園を開くとは、大樹となる若木をキャンパスの隅々に植えることでした。仙台市も、戦災復興の過程で、定禅寺通りをはじめとして、大通りに青葉の大木を傑作なほど茂らせました。ところが今日、気がつくと、日本中どこでも、街路樹の一本もない通り、もしくはみすぼらしい木をまばらに植えただけの通りが、ものすごい勢いで増えています。こんなことを続けていては、砂漠化した都市の高温化がさらに殺人的となるのは確実です。地球温暖化の危機を煽り立て――て原発再稼働に弾みをつけ――る前に、街に緑樹をもっと増やせ、と言いたくなります。
植樹した街路は、何十年かしてはじめて、その本来の姿を現わします。植樹を行なった世代は年をとって退場していき、次世代、次々世代がようやくその恩恵に、つまり緑光に浴するのです。木々が育ち、並木が保たれるには、住民の理解と貢献が求められます。街を愛するとは、空語ではなく、日々の具体的実践であり、絶えざる世代間共同事業なのです。敗戦後の焼け野原から七十年後、大きく成長して鬱蒼と茂った街路樹の下を、今日のわれわれは闊歩しています。われわれが当たり前のように享受している快適な都市環境は、歴代の市民の不断の努力の賜物なのです。
では、われわれは、これからの世代に果たして何を贈ろうとしているでしょうか。今日造られているものは、五十年後に街並みの一部としてなお健在でしょうか。後代の人びとは、われわれの時代が遺したものを、愛し続けてくれるでしょうか。とてもそうは思えないのです。なにしろ、われわれ自身、かつて人びとが築き、守ってきたものを、愛するどころか、片っ端から壊しまくっているのですから。
掘立小屋然とした地下鉄川内駅舎や大学事務棟が、後代の人びとに愛され続けることはないでしょう。そればかりではありません。旧仙台市民図書館を建て替えて画期的デザインと評判を呼んだ一面ガラス張りの「せんだいメディアテーク」(二〇〇〇年竣工)も、東日本大震災のダメージこそ乗り越えたものの、使い勝手の悪さが目に付くようになっており、今後末永く愛されてゆくかは定かではありません。新しさ追求一辺倒のモダン建築は、まさにそれゆえに、古くなればなるほど価値を減じてゆくのです。新奇さとはまた別の、どっしりした建築思想が求められるゆえんです。
半世紀にわたって人びとの記憶をやどし続けた国立競技場は、いともあっさり取り壊されてしまいました。その跡地に建てられるべきものをめぐっては議論が賑やかですが、壊してしまった責任は誰も取ろうとしません。壊すことに現代人がいかに執着しているか、ここに如実に表われています。同じく五十年前に産声を上げた愛知県立芸大キャンパスも、再開発の轟然たる嵐に、久しく見舞われています。古くなったからには建て替えるほかはない、というわけですが、まさにそういう結論を得たいがために、保守監理はなるべく行なわないできた魂胆が、透けて見えるかのようです。
同じことは、私が現在住んでいる官舎についても言えます。築半世紀になろうとするアパートは老朽化が目立ちますが、メンテナンスを施せばまだ十分住める、しっかりした造りです。なのに、朽ちるに任せているのは、早く壊して公有地を民間に払い下げ、バブル(あぶく銭)を得ようという算段でしょうか。そう疑いたくなるほど、法人化した大学は、もはや学問そっちのけで、どれだけ儲けるかにしか興味を示さなくなっています。
半世紀前、全国津々浦々に造られたコンクリート建築には、とっくに壊されたものも多く、残っているものも総じて破壊の標的となっています。一九六二年生まれの私は、同世代の建物たちが次々に壊されてゆくのを見聞きするたびに、自分の寿命が尽きてゆくのを感じてしまいます。人間が、歳をとるにつれ心身ともポンコツになってゆくように、建物も、躯体も外壁も内装も老衰してゆくかのごときです。
いや、そうではありません。建築や街造りを、人間の生死と同じスケールで考える発想から、われわれは脱却すべきなのです。五十年経ってはじめて真価が現われるものこそ、家であり庭であり、通りであり街並みなのです。五十年過ぎたということは、世代交代が起こったということです。見ず知らずの世代にも愛されるものを産み出すことは、生半可な心掛けではできませんが、まったくできないわけでもありません。のちのちの人びとに受け継がれてゆくに足るものを建て、築くことが、死すべき者たちにも可能だということを、人類は古来、実証し続けてきました。いつの時代のものであれ、有形、無形の文化財というものは、人の生き死にを超え、世代から世代へ、連綿と持ちこたえられてきたものです。それが、現代人にどうしてできないはずがありましょうか。伝承されてきたものを食い尽くすばかりで、永続的なものを何一つ残さないでよいとは、何と虫のいい考えでしょう。原子力という宇宙エネルギーを手に入れた高度技術文明とは、野蛮への逆戻りなのでしょうか。
二十世紀の大破局を経験してもなお発展進歩を信じてやまない二十一世紀の人類は、後代に何を残すのでしょうか。瞬間的景気浮揚に汲々とする公共事業や住宅政策によって建て散らかされた老朽コンクリート建築の林立する荒野、でしょうか。まさか、原発廃棄物という不滅ゴミをうず高く積み上げてやったことを、誇りとするつもりなのでしょうか。
そんなアクロバティックなことなどせずとも、われわれにはできることがあります。五十年後に愛されるものを建てること、そして、五十年前に建てられたものを愛することです。想像力がどんなに貧困でも、五十年後を想到することは、誰でもできるはずです。なぜなら、五十年前に作られたものを、誰しも少なからず享受しているからです。
五十年前に作られたものに、われわれがどれだけ多くを負ってきたかを考え、それに見合うだけのものを五十年後に残すためには、今われわれは何を為すべきかを考えること。そういう前後百年のスケールで考えた場合、ただやみくもに作る――ために壊す――ことではなく、これまで作られてきたものに手を入れ、それを保ち、伝えていくことの重要さが、明らかになってきます。また、何かを新しく作るさいにも、五十年後の人びとに愛されるようなものを作ることが目指されるでしょう。私の言っているのはじつに単純なこと、要するに「職人気質」ということです。人間の文化を下支えしてきたこのエートスが失われるということは、文化の基盤そのものが掘り崩されることを意味するのです。
哲学には、少なく見積もっても二千五百年の歴史があります。東西のさまざまな文化にしても数百年単位の錬成期間をもち、そうでなければ文化とは呼べません。なので、欲を言えば、百年後、あるいはそれ以上を望見したいところです。とはいえ、五年も経たずにモデルチェンジするノリで一切合切(大学改革も教育改革も)とっかえひっかえしている現状では、「せめて五十年後を考えよう」という倹しい勧めにとどめておきましょう。
えっ、それでも長い?――なるほど、自分たちが死んだあとを考えるというのですから、死んだら終わりと念仏のように呟くニヒリストたちに、敷居が高すぎるのは当然です。七十に届く年頃になっても、あたかも自分は伝承されてきたものの世話になったことなどないかのように、過去と未来の厚みと重みを否定したがる刹那主義者が、世に憚っています。あなたがたが世に憚っているおかげで何十年間も積み上げてきた年金制度が崩壊しかねないというのに、死んだら終わりとよく言えたものですね、とついこぼしたくなります。
ともあれ、団塊世代の死なばもろとも論は敬して遠ざけておきましょう。われわれは前向きに、つまり五十年後にどんな街並みを市民が闊歩し、どんなキャンパスで未来の学生が語らうか、に思いを馳せながら、建てることと住むことを考えようではありませんか。
二〇一五年晩秋 仙台川内にて
森 一郎