ベネトン財団文化施設の修復例 Fondazione Benetton Treviso Italy

INAX REPORT no.159 2004.6.掲載記事






イタリアの街は、ほとんど文化財として保護規制がかかっていますから、建物の所有者が個人であれ公共であれ修復保存は義務であり、設計者にも施主にも選択の自由はありません。保存についてどの時代をどういう状態で残すかが問題とされますが、その決定は文化財保護局によってなされ、設計者は、歴史家や修復専門家とともに、文化財保護局へ提案するにとどまります。文化財保護局の建築家は、プロジェクトに大きく影響し、相性のあわない建築家に審査された場合、許可がおりずに何年も提案を繰り返す、という設計者や施主にとって頭の痛い事態になることもしばしば起ります。

 さて、修復保存といっても建築は博物館の収蔵品ではありませんから、今、私たちが快適に使えるための設備や、建築に関する法規制、避難経路、バリアフリーといった問題も当然解決されなければなりません。ここで基本になっている考え方は、加は可、除は不可。例えば、1500年代の建物に1800年代に改装がされて、二つの様式が不調和に混在していてもその改装のあとは、残さなければなりません。現代の改装にあたっては、時代が明らかになるような建築材料、鉄や強化ガラスなどを付け加えることが求められます。過去に現在を織り込んで2000年代の様式も次の時代に伝える、と言う考え方です。

 ここに紹介させていただくのは、トビアスカルパが、イタリア東北部ベネト地方の都市トレビゾで2003年に完成させた修復の例で、中庭をはさんで図書館 研究棟と、ギャラリー 小ホール棟の2つの建物からなる文化施設です。この地方には、1810年頃のナポレオンによるものと、1840年頃のオーストリアによる不動産登記台帳が存在していて この2つの建物は、1800年ごろには現在のようになっていたことがわかります。

 図書館棟は、1800年初め頃の様式を内、外ともに保っていて、床にも天井にも装飾があり、図書館にもとめられる荷重に耐え得る梁の補強ができずクライアントの希望していた部屋に書架を置くことはできませんでした。

 ギャラリー 小ホール棟は、1300年頃のものですが後の改装で外観は1800年初めの様式になっています。1944年に米軍の爆撃をうけ屋根の一部が崩れた後放置されたため、全ての床が落ち外壁をのこして中が空になった部分もありました。この部分は外観は写真などから復元しましたが、室内はまったく新しく、屋根も鉄骨です。爆撃の被害をうけなかった部分は、壁のフレスコ画を洗浄するうちに次々時代の異なる装飾があらわれ最終的に1つの部屋に4つの時代の装飾が存在することになりました。

 ここに紹介した建物は、歴史的に特に価値のあるものでもない、イタリアではごく普通の修復の事例です。設計者にとっては厳しすぎる規制、オーナーにとっては気の遠くなるような長い時間と大きな出費。この仕事量と忍耐が、イタリアの観光資源でもある街の景観を保っているような気がします。

篠田 望 しのだ のぞみ


丸で囲んだ2棟の修復計画。右側の建物は、1944年、米軍の空爆により屋根が崩れそのまま放置されていた。

2000年、工事開始前の様子。床もすべて朽ち、外壁だけが残る。

1940年ごろ。既に空家だった。この写真を元に外観を復元した。

仕上げは、残っていた漆喰の成分分析と同地方の同時代の建物を参考に決定。

こんなものまでボリュームとして残さなければならない? 理由は、1853年の地図(下図丸印)にこの部分があるからです。

完成後の航空写真。昔の美しい街並が残っているのではなく、昔の地図や写真を元に、街並を変えない努力がされている。

完成後の中庭。この部分は、工事車両搬入のためにすべて取り壊された後、同様に復元された。

レンガ造に見せかけたRC造のアーチは、レベルの違う2つの建物をスロープでつなぐことと、スロープ下の機械室を隠す役割をもつ。機械室に必要な給気開口面積からアーチを算定。文化財保護局の許可を得るのに最も時間がかかった部分。

外壁しか残らなかった部分の内部。新しい講義室として使用されている。保存するべき装飾等が残っていない場合、内装は自由。

室内に装飾が残る部分は、装飾された梁を鉄骨により補強しギャラリーとして使用。

左の部屋。壁を洗浄するうち、隣り合わせに二種類の時代が異なるフレスコが現れる。このまま保存。

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