奥村まことのブログ 吉村順三先生に学んで

 

「もうもどれない」       

2015年10月

教育は、教え育てるとともに教わり育つことでもある。それは人がそれぞれ自らのものを確立してゆくあらゆる過程にある。

その場として存在してきた歳月の価値。他に例を見ない素晴らしいキャンパスを、自然になじみ、いまも続いているここを壊してしまい変えてゆこうとしている。

それがなしくずしに行われようとしている。ここの良さがわからないとは信じられない。

ここの美しさが分からない人たちに芸術教育に関わる資格があるのだろうか。


愛知芸大キャンパスは単なる建物群とその敷地なのではない。それは芸術教育の場として

の大学を現実の姿として表した他に例を見ないキャンパスなのだ。

南北の軸線上に講義棟、南に学生会館北に学長室と管理棟、直交する東西の軸線上の東側に音楽学部、西側に美術学部、を配した自然の地形を生かし水系にも心をくだいた設計は明快に芸術大学のコンセプトを示している。


整備をしっかりしてこなかったことで実用上の不具合はそこここにあるが、それを直してもまた具合が悪くなるだろうから新しいものに建て替えたほうがいいという。これを貧しい発想とは気づかないのか。では、その新しく建て替えた建物はいたんだりしないのか?新しいものでも、使い続けるには整備をずっと続ける必要がある。

自動車を下取りに出して新車に替え、値段があるうちに又下取りに出して買い換える。そのほうが得だという。貧しい発想なのだが、経済的には正しいと言いたいのかも知れない。大量生産は大量消費を必要とする。

消費がなければ経済は立ち行かないが、キャンパスや建物は下取りに出すような消耗品ではない。


歴史的建造物ではない。講義棟の一部を切り取って残しておけばいい。などという。

ライトの帝国ホテルは壊され、その入り口部分のみ切り取られ移設されている。

それが望ましいことだったとでも言うのだろうか。経済的には正しいというのだろうか。

失われたものの大きさが分からないのだろうか。

人は経済というもののために生きるのか。

経済は目的とはなり得ない。


壊してしまったらもう後には戻らない。愛知芸大のこれまでと、これからを考えるとき、なぜ今までのものを改善するのではなく全く違うものを作らなければならないのか。

いろいろと不具合と理由をのべるだろうが、好きなようにやりたいだけなのだろう。

その根底にあるのは欲。

この欲によって人はここまで来た。

人の歴史は人による自然破壊の歴史であるが、常に何かを変えたがる性が、のがれられない業としてある。

破壊され続けてゆく行く先は見えているが、あとには戻れない。


大谷茂暢