地域競争が誘うコーポラティズムの行く先にあるもの
地域競争が誘うコーポラティズムの行く先にあるもの
日本の建築と周辺環境をまもる会 uses-it.org 代表 木村 剛士
1945年の敗戦からわずか5年を過ぎたあたりから特需により日本の奇跡的成長ははじまった。7年後のサンフランシスコ講和条約締結で輸出製品の刻印も"Madein in Occupied Japan"から"Made in Japan"へと復帰し、その後池田内閣が掲げた国民所得倍増計画は、目標を遥かに上回る驚異的な経済成長を遂げた。その成長は大きく見ればプラザ合意以降に起るバブル崩壊までの約40年間にわたり続く事となる。その後ITバブルと称される一時的上昇があったものの、リーマンショックや欧州金融不安など様々な影響を受け現在に至っている。約40年の奇跡的好景気の終焉の後、多くの企業は早くから労働コストの軽減と新たなマーケットを求め新興国への進出を行った。それにより産業の空洞化と技術・知識のシフトが生じる事となる。言わばそれまで我が国の成長にとって絶対要素であったイノベーションが、下請け先であったはずの新興国で起る様になってきたのである。
こうしてグローバル化した経済競争に対抗するため経済産業省を核として、日本産業をまもるためのインフラ再整備が唱えられる様になる。その一端にハブ港・ハブ空港の奪還論が浮上する。巨大ガントリークレーンを連立させ外国船が入れる水深のある埠頭の必要性、24時間離着陸が行える空港の整備。当然それらにつながる鉄道網や道路網などインフラの整備。
一方、ほぼ時を同じくして戦前から構想があった道州制にはじまる地方分権の議論が国の方針として浮上する様になる。地方が主体となる道州制においては、
政治の主導権競争、経済界の思惑などが先行するため、こちらでも他者より優位なインフラの構築が必須のスローガンになって行く。
結果的にこの二つが相まって各地域の競争原理が生じ、激化する事となる。
港湾においては全国で主要港5港を含む68港、空港に関しては、各県1空港などと言うとんでも無い濫立がおこり、全国に98空港。大阪、兵庫においては何と関空、伊丹、八尾、神戸、但馬、2府県で5空港が存在する異常とも言える状況が生じている。当然港湾・空港ともに相殺現象が生じ約8割が赤字運営に苦しんでいると言われている。
さて、国の戦略としてのインフラ整備、地方自治体間(財界枠組み)の競争による都市開発、この大きな流れの中で景気回復や地域活性と言う“魔法の言葉”で票を求める政治家、明治以来“特権の維持”に固執する官僚、国・地方自治体が推進する“特需”と言う超最短で得られる利益に群がる企業と御用学者達。まさに産・官・学それぞれの利害関係が上手く絡み合える基盤が構築された状態がどの分野にも生じる様になった。そこに法人化前の愛知県立芸術大学が県行政と10年近く着々と進めて来た建て替え構想を、法人化を切っ掛けとし決定事項であるかの様に浮上させたのである。
10年の計画推移は大学関係者の話しと議事録を照合して行けば説明の必要もない。
ここにまず一つの大きな問題点が浮かび上がる。仮に経済活性を背景に先のハブ化論をも構想に据える程の広大な計画であるとするならば、純然たる国家的都市計画と言って良い程のものである。大学はもちろん、関係する自治体首長はじめ、管轄行政機関の各長には説明責任があったのではなかろうか。愛知、岐阜合わせて約九百五十万人近くの市民は着地点はおろか、計画の入口すら知らされていない。将来を見据えた都市計画は一部の政治と行政、企業、御用学者だけで遂行されるべきものではない。ましてや、違う意見を持つ者を排除しての計画遂行や、第三者的視点を持つ者を置く事無く性急に進められるそれは、確実に“コーポラティズム”である。さらに愛知芸大に限って言えば、この計画の責任の所在が何処にあるのか、県は法人に有ると言い、法人は大学に有ると言う、勿論大学は県だと言う。この体制はまさに“ムラ”だ。福島の原発問題でも露呈した様に最終責任を負う事の無い様、巧妙にリスクを分散する。最終責任者不在なまま計画だけが脈々と進行する。動き出したら止まる事は決して無い。約10,000人に達する国内外からの署名や意見は、参考とされる事すら無く一切を「捏造」として踏みにじられた。近頃第1段階の願いが叶った様で「改修保存決定」と言う言葉を巧みに利用した消火広報が聴こえてくるが、踏みにじられた10,000人の目は今後も愛知県立芸術大学ムラを見つめ続けている。
歴史資産や環境を大切に繋ぐ事により、市民は都市に誇りを持つことができる。今まで日本の多くの都市はそれを消失させ続けてきた。それ故いつまでもスクラップ&ビルドが繰り返されるし、建築や街並、環境の価値を理解する事が出来ず、街に愛着を持てない様になっている。
都市の資産は新しい産業へのきっかけにも繋がる。都市の資産を守ることは、次の世代への教育となり警鐘となる。例えば名古屋市役所の帝冠様式は建築資産上での保存も大切だが、様式の背後にある帝国主義から起った戦争と言う歴史を伝える上でも重要なものである。こうした歴史的資産があることにより、独自の文化が継承されることになる。また、この地方の特色として産業遺産(金山、鳴海、則武、豊田など)を文化資産として残す事が出来れば、独自産業文化の継承にもなり、地域産業の活性・復興に貢献する可能性となり得る。
独自産業に愛着と誇りを持つ事が出来なければ、物づくりは全てコストの安い海外で行えば良い事になる。言い換えれば文化資産を残す事で産業の空洞化に歯止めをかける望みがある。我々が愛知県立芸術大学校舎群や環境保存の重要性を唱えた論理と根拠は全く同じである。
最後に今回のことから今後我々が抱える問題として若干のファシズム傾向のあるコーポラティズムから如何に歴史資産をまもって行くか、
またそれらの価値や美しさを理解し共有出来る文化をどの様に教育して浸透さえて行くかが課題として浮き上がった。
さらに、我々は冒頭の経済状況を改めて理解しなければならない。奇跡的高度成長やバブル経済の再来は望めない。豊かである事が幸せであると思い込んだ考え方を変え、何処に幸せを見い出し、個性ある生活を送って行けるのかを一人ひとりが考えて行かなければならない。3.11の被災地から「愛知県立芸術大学校舎群やキャンパス環境を残して欲しい」と送っていただいたメッセージの先には、その答えがある様に思えてならない。
2012/03/31